物書き

2009年10月17日 (土)

ノーベル平和賞への違和感

オバマ大統領がノーベル平和賞と決まった。核兵器廃絶への努力が認められたらしい。当然ながら、就任後1年も経たないうちの受賞は時期尚早との声も上がっているが、一方でノーベル平和賞はヨーロッパ知識層の政治的な意図を色濃く反映するものなので、受賞による今後のオバマ氏の堅実な実行をうながすものだという応援と圧力のメッセージと受け取る向きもある。

けれども僕は、別の意味でこの受賞に違和感を感じる。そもそも核兵器は米国が開発したものだ。それが日本へ落とされ、戦後の冷戦時代に米ソを中心に威力と数の増強が競われた。やがてソ連の崩壊とともに冷戦時代が終わりを告げ、軍縮の気運が高まり、米国は核軍縮へと舵を切ったわけだが、今もインドや北朝鮮やイランなどで積極的に核開発が進められている状況を前に、米国も苦しい立場に立たされている。

こんな経緯をひとことでまとめると、米国はみずから解き放った「人類のパンドラの箱」のふたを必死に閉めようとしているわけだ。そんなマッチポンプに対してノーベル平和賞というところに違和感を感じるのである。

もちろん、オバマ氏自身が核開発や軍拡競争にかかわっていたわけではないので、個人として見れば勇気あるすばらしい行動だと思う。その意味では、僕が感じているのは、オバマ氏受賞への違和感ではなく、むしろ核兵器の被害にあった唯一の国である日本からこそ受賞者が出なければならないのではないかという心のわだかまりなのかもしれない。しかし現実には、日本の被爆者団体の声は世界に十分に届いていないし、被爆者自身が体験の恐怖と生き残った後ろめたさから積極的な発信をためらう傾向にあるようで、国際的な影響力は発揮できていない。だが今回の受賞を機に、広島や長崎ではオバマ氏訪問への期待を寄せており、これをきっかけに核兵器の脅威が正しく世界に伝わり、日本の存在感が改めて見直される望みもある。いずれにせよ、今後のオバマ氏の行動からは目が離せない。

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2009年9月17日 (木)

世界の片隅で平和を叫ぶ

半年ぐらい前に買っていたんだけど、先日やっと読み終わった漫画。

もちろん、中も下もあるけれど、めんどくさいので上だけ貼った。作者は原爆の悲惨さを後遺症の観点から静かに語った傑作夕凪の街桜の国と同じ、こうの史代さん。押しつけがましくなく、心にしみ入るように伝えるスタイルは今回も変わらず効果的だ。

今度の作品では、太平洋戦争当時の広島と呉を舞台に、そこで多感な年頃を過ごしたひとりの少女、すずの視点から社会情勢と市井の生活を描いている。すずの元来の明るさゆえか、彼女の目で見た戦時下の暮らしは決して暗く重苦しい感じではない。時々家族が死んだりする悲しい出来事もあり、戦争という理不尽な暴力に振り回されながらも憎しみや恨みを抱かず自然に生きる姿に、かえって戦争の愚かさを痛切に感じてしまう。先日、原爆でひどい目に遭いながらもアメリカへの憎しみを抱かなかった日本人はすごいという話をしたが、それもこんなところから思った話だ。

ストレートに暴力や死を伝えるだけが戦争の悲劇の伝え方ではないと教えてもらった作品。

あと、戦時下の暮らしを実に細かいところまで伝えていて、作者が自分と同年代とはとても思えないぐらいだった。その丹念な調査にも恐れ入る。

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2009年8月11日 (火)

地震と原爆

先日の地震で不気味だなんて書いていたら、ほんとに大きいのが来てしまった。また不思議と目が覚めてからすぐに揺れが来て、朝5時からテレビをつけてしまったので、今日は寝不足。気象庁は前兆すべりがないからと今後の東海地震との関連を否定したようだが、あれだけ震源が東海地震予想域に近ければ、影響は皆無とは言えないだろう。それにしても今日のは台風と重なりそうで大変だったな。盆休みに東名が通行止めというのもえらいことだ。

盆休みといえば、終戦記念日を迎えるこの時期にいつも思うことがある。この時期になると必ず新聞などで戦争や被爆の体験などが綴られるけれど、原爆の悲惨な話を読むたびに、これだけひどい目に遭いながら、戦後アメリカに猛烈な恨みを抱かず(抱いた人もいるのかもしれないが)、アメリカを手本に復興と経済成長をなし遂げていった日本人ってすごいなと思うのだ。イスラムのようなテロリストを生み出さず、報復に心を向けなかった日本人は信じられないほど内省的で優しい民族のように思え、一方でそんな民族の国家がなぜ戦争など起こしてしまったのかと不思議な気持ちにもなる。それとも、優しいのではなく、圧倒的に強い相手にただひれ伏してしまっただけなのだろうか。ああ、また大きすぎるテーマを中途半端に語ってしまった。

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2009年7月17日 (金)

最近気になる言葉

車でラジオなんか聴いていると、ときどき気になる言葉がある。

番組のパーソナリティが休日の観光名所やプレイスポットなどを紹介したり、スポーツや音楽などを薦めたりするときに、よく「皆さんもぜひ~してみるといいかもしれません」とか言うのだ。これ、なんかおかしくない? 「ぜひ」と勢い込んでいるのに、すごくあいまいな感じで、本当なら「~してください」とか「~してみましょう」とかもっと相手を強く誘う言葉が続くはずだ。これってひょっとして、若者言葉で断定を避ける言い方が流行っているのと無関係ではないんじゃなかろうか。相手の顔色を窺い、責任も回避する風潮の現れ? メディアまでそうなってほしくはないなあ。

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2009年3月 3日 (火)

まいった、まいった

先週末、編集者からいきなり衝撃的なメール。翻訳方針の大転換。仕事も半ばにさしかかっているというのに、当初「である」調で合意していた文体を「ですます」にとか、対象読者を広くするために意訳してでもやさしくとか。学生時代の先輩と飲んで一緒に帰ってきたところだったので、深夜にもかかわらず「ぬゎにぃい(やっちまったなあ、だとクールポコか)」と叫んでしまった。

そんなわけで月曜は先方が不在だったので今朝電話。シリーズ物なので自分のところだけ大きく変えるわけにいかないのはわかっていたから、ですますは承諾するが、大きな意訳は主義に反するので原文から離れない範囲で表現を言い換える程度とし、邦訳で増えてしまう分量の調整はレイアウトでできれば対処してほしいとして手を打つ。無理に読者に媚びることはしたくないので、やたらにくだくのはどうかと思うわけで。ともあれ相当なタイムロスになるのは確かなので締め切りを延ばしてもらうことにした。延びるのはいいけど、次の仕事を始めるのが遅くなるとそっちがまずいんだよね。

しかし、それよりびっくりしたのは某社のほうだ。あきれてもう何も言えない。

最近こんなことばっか。

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2008年11月29日 (土)

『サバイバー』(吉井妙子著)読書感想

風邪は薬でおさえられ、昨日の講義もなんとか行けた。ここで酒を飲むとぶり返すのかなあ。

ところで、少しずつ読んでいた、吉井妙子さんというスポーツジャーナリストが書いた『サバイバー:名将アリー・セリンジャーと日本バレーボールの悲劇』(講談社)というノンフィクションを、ようやく読み終えた。憤慨と情けなさで手が震えた。

セリンジャー氏といえば、バレーボールファンなら日本でもダイエーや東北パイオニアに黄金時代を築いた名監督として知っている人も多いと思う。イスラエル出身で選手としても活躍したが、日本やロシアがバレー帝国として君臨していたころに、身体能力は高いのに下位に低迷していたアメリカ女子を数年でトップレベルに導き、ロス五輪で銀メダルをとったあとは、巨人揃いなのに弱小だったオランダ男子をまたしても5年で五輪銀メダルへ導いた。

そんな奇跡をなしとげる神様とも称されていた人が、日本でも実業団リーグで文句なしの成績を残しながら、なぜ全日本監督になれなかったのか。その理由を語るのに、彼のホロコースト体験から書きはじめなければならなかったわけは、本書を最後まで読めばわかる。まずもってセリンジャー氏がナチのベルゲン・ベルゼン収容所の生き残りだったという点に驚かされたし、それとバレーボールの話を同じ本に盛り込むのはテーマが分散して無理があるのではないかとはじめは思ったが、両者が大いにリンクしていることに途中で気づかされる。

バレーボールに対しての姿勢の厳しさや輝かしい成功の数々のもとに、一瞬の油断もならない幼少期の収容所体験がかかわっていたこともわかるが、なにより収容所の悲惨さは『夜と霧』以上に自分にはインパクトがあった。年端もいかぬ子どもがこんな状況に追い込まれたことが、余計につらく思えたからかもしれない。

しかしそのうえ打ちのめされたのは、そんなセリンジャー氏がかつてナチと同盟を組んでいた日本が好きになって、翳りの差した日本バレーを復活させたいと心から願っていたのに、それまでの日本の常識からはずれた育成計画を主張する外国人という理由で、かつての栄光になおあぐらをかいている裸の王様のような日本バレーボール協会(JVA)から排除されつづけ、ついに一昨年、15年もの長きにわたり指導を続けた日本をあとにしたという話である。彼の心に残った虚しさはいかばかりかと痛ましく思うと同時に、以前から話には出ていたJVAの旧弊な体質がここまでひどいものなのかと、かつて中高大学とバレーボールを続けて間接的に関わっていた自分も情けなく思った。

不思議なのは、こんなに理不尽で恩知らずな対応を指弾する内容の本なのに、僕の知るかぎり書評やスポーツ記事において大々的に取り上げられているのを見たことがないところだ。マスコミは黙殺しているのか? それともバレーボールがそこまで国民的関心の薄いスポーツになってしまっているのか? だがフジテレビなどで全日本の試合がゴールデンタイムで流され(これは多額の費用を協会に貢いでいるフジの宣伝効果も大きいようだが)、その視聴率が高いことを考えると、後者の可能性は考えにくい。けれども、試合に関心はあっても、勝つための戦術を素人が独自に論じ合うような、野球やサッカーほど平均的なファンのレベルが成熟していないのかもしれない。

現状のJVAに変化の兆しがまったく感じられないことを思うと、本当にやるせなくなるし、今後の全日本を真剣に応援する気にもなれない。たとえばセリンジャー氏の寵児だった吉原知子さんに女子の監督になってもらうとか、それぐらいの変化があってほしいものだ。それにしても、セリンジャー氏には、日本人として本当に申し訳ない。

追記:こんなときのためのamazonアフィリエイトなのに忘れていた。本作はこれ↓

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2008年10月23日 (木)

ひやおろしの季節

昨日は、昔から付き合いのある編集者M氏が移籍したお祝いに、私の師匠と三人で、私のおすすめの新宿の店で飲んできた。事の経緯を語りながらもピッチの速かったM氏は、開始一時間で早くもへべれけになっていたが、この人のすごいところはそのままつぶれたりせず、へべれけの状態で漸近線を迎え、そのまま持続するところだ。多少の物忘れはあっても、話の内容は論理立っている。日本酒の豊富な店なので、秋田の十文字、長野の大那、福井の常山、愛知の……(なんだっけ?)など、いまだ飲んだことのない酒にチャレンジした。十文字や常山はちょっとくせがあったが、大那のひやおろしはなかなかいい。愛知のなんたらもよかったのに忘れてしまった。そのあとはへべれけM氏に連れられて思い出横町へ。だがビールと熱燗を飲んで20分ほどでM氏が帰宅宣言をして解散。結構飲んだがいい酒だったせいか、翌日に残らなかった。

飲み会の前にも、別の編集者と会った。どうやら来年の仕事ができそうだ。条件に多少の不満があるため、そこだけ持ち帰って検討していただくことにする。内容は比較的平易なようで、それでいてしっかりポイントはおさえている感じで好感が持てた。

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2008年10月19日 (日)

悲惨な事故をなくすには

ひき逃げ容疑で中3女子逮捕 男性180m引きずり放置
http://www.asahi.com/national/update/1018/OSK200810180103.html

親の軽自動車を勝手に持ち出し、無免許で運転したらしい。なんということだ。最近の車はオートマが大半だから、教習を受けなくても動かすことはできてしまう。技術の進歩で機械が扱いやすくなるのはいいことだが、自動車のようにひとつ間違えると殺人の道具になってしまうものでは、あまり簡単になるのも問題だと思う。扱いが楽になると運転者が慎重さを失い、注意も散漫になってしまうからだ。

携帯電話を手にしながら運転するのが最近禁止になったが、これだって自分がふだん乗っているマニュアル車ではほとんど不可能な芸当だ。シフトチェンジをしなくてもすむオートマだからそんな危険運転が可能になるわけだし、自動車の事故や事件を本気で減らそうと思ったら、いっそのことオートマ車をなくすのが一番有効だったりするかもしれない。危険な道具を扱うわけだから、ある程度特殊技能が要求されるようにしたっておかしくないだろう。特殊技能といっても、われわれが免許をとったころにはみんなマニュアルを運転しないといけなかったのだから、別にそれほどのことはない。でなければ、逆にどんな運転をしても絶対に事故を起こさないようなハイテク車を開発するかだ。でも人間が作るものに絶対完全なものはないよね。

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2008年9月21日 (日)

競争原理

パラリンピックも終わって今さらだが、北京五輪を見たとき気になったことを書いてみたい。

メダルをとった日本選手のコメントに、「子どもたちに夢を与えたい」というのが多かった。女子バレーセッターの竹下が、かつてやはりそんなことを言っていた。確か、自分のような身長でも世界で戦えることを見せて、子どもたちに夢をうんぬんと。一理あると思いながら、いかにも日本的なのかもなあとも思った。

日本では体格のハンディを乗り越えることが子どもたちの憧れになっていると思う。だが、たとえばアメリカでは貧困のハンディを乗り越えることが憧れなので、ちょっとちがう。貧しくて虐げられている黒人は決して体格が劣るわけではない。だから大リーグでもバスケットでも、大型選手の活躍がもてはやされ、子どもたちに夢を与えられるのだろう。

ここに、なにか根本的なレベルでの違いがあると思う。世界と戦うにはアメリカのような夢の与え方が功を奏するのだろう。だけれども、僕の心のなかでは、それは違うという声が響いている。世界と戦うには大型セッターを育てないといけないと思いながらも、だ。

自由競争の原理は、確かにここまで数世紀の歴史をプラスに導いてきた。米国が世界を牽引する絶対的存在となったのも、結局はこの結果に他ならない。「がんばって成果をあげればどんな人も等しく認められる」というのは確かにすばらしい。しかし、その陰で、たくさんの敗者が貧困にあえぎ、人生に絶望しているのも事実だ。貧困から抜け出す夢を追いながら、現実は夢破れた者のほうが圧倒的に多いはず。それが本来の生存競争なのだという声もあるかもしれない。けれども僕は、そんな社会に住みたくはない。それは自分が勝者になる自信がないからでもあるが。

そんなわけで僕は、日本にはそういうアメリカの負の側面を真似してほしくない。たとえばマイケル・ムーア監督の映画『シッコ』で指摘されているように、アメリカには公的な健康保険がないから、民間の保険に入れない貧困者は満足な医療が受けられない。ただでさえ高齢化が進む日本で、不払いで問題になっている国民健康保険制度が破綻したら、同じようなことになってしまうのではないかと不安でならない。

なんか妙に話題が広がって収拾がつかなくなったので、今日はこのへんで。

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2008年7月26日 (土)

マルチディスプレイにしてみた

台所の生ゴミを入れたビニール袋のなかに、袋の口を閉じていたのに小バエが発生していた。ああ、生物の自然発生説というのは、こうして見ると信じたくなるものだなあ。

それはともかく、また仕事環境をグレードアップした。ついにマルチディスプレイ態勢へ移行。講座の生徒さんから教わってこんなものをそろえたら、あっという間にできてびっくり。

これで、片方に原稿、片方に辞書やインターネットの画面を開いたりして仕事ができる。噂には聞いていたが、やってみるとなるほど楽ちんだ。2万数千円でこれだけのことができるのなら、すごくお得な気がする。導入もCD-ROMからドライバをインストールするだけで、あとは配線をつなぐだけ。いやあ、世の中便利になってるなあ。昼間は株の画面を片方に表示することもできるぞ。だけど、かえって値動きが気になって仕事の能率が落ちたりして。

ただ、新しく買ったディスプレイともとのディスプレイが、サイズは同じだけど色合いや解像度が微妙に違うので、ほんとは同じメーカーのものをそろえたほうがいいのかもなあと思ってみたり。色調整をあれこれいじってみるが、どうも原稿背景の白が、白熱灯と蛍光灯のように色が違って、なかなか合わない。まあ贅沢言ってもしょうがないか。

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2008年5月 1日 (木)

スランプ

仕事がペースダウンしてまずい状況だ。まさか五月病? youtubeで見つけた懐かしい歌謡曲など聴きながらやって、なんとか脳をだましてシータ波を出させようとあがいてみる。麻倉未稀のヒーローで少しは活が入るが、「イソップ~!」なんて余計な妄想も浮かんでしまって、あんまり集中できていない。しかたないので、気分転換にくだらない短篇でも書いてみる。いや、実は高校時代に書いたのを不意に思い出して、うろ覚えで改めて書いてみる。ほんとくだらないよ。

『アンネの日記』

 今日は、クラーレルさんが闇市でパンを買ってきてくれました。それぞれ種類がちがうというので、わくわくしながらペーターと食卓につきます。でも、どれが何のパンなのか、クラーレルさんもよくわからなくなってしまったみたい。わたしはためしにひとつ手にとって、ペーターに言いました。

「このパン、クリームかしら、ジャムかしら?」

「割ってみれば」とペーター。

 さっそくそのとおりにしてから、中を見てわたしは言いました。「餡ね」

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2008年3月19日 (水)

巨星墜つ

アーサー・C・クラークが亡くなったらしい。高齢でありながらなお執筆活動を続けていてすごいなあと思っていたが(晩年はほとんど他のSF作家との共作のようだが)、ついに……。享年90。

アシモフ、クラーク、ハインラインといえば、かつてはSF御三家として不動の地位を築き、僕も学生時代にハヤカワ文庫の青物を読みあさっていたときにそれなりに読んだ。やっぱSFの黄金時代というのはあの頃だよなあ。SFが斬新なアイデアにあふれ、どきどきするような未来を提示していたのは、1980年代までだったかもしれない。最近は現実の科学のほうが進歩が速くて、SFに新鮮味が失われている気がする。

もちろんSFのアイデアで実現されていないものは多いが、大がかりなアイデアはかなり出尽くしてしまい、近ごろは物語で読ませようとするしかなくなっているのではなかろうか。そのぶん小説としての深みは増していて、それはそれで歓迎できることだけれど。そういう意味では、SFは文学として成熟を遂げたのかもしれない。最近はカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』みたいに純文学とSFの垣根がなくなったようなものも出てきているし。

アイデアSFを読んでいたころは、描写の粗さが気になって、小説として完成度の高いのを書いてみたいなあなんて不遜なことを考えていたけど、今はまた、奇想天外なアイデアで頭をがつんと殴られるような本も読んでみたいなあ。

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