« ぼんやり思うこと | トップページ | 春の足音 »

2011年3月23日 (水)

合掌

ビートたけしさんが、今回の災害について、「この震災を『2万人が死んだ一つの事件』と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。…(中略)…そうじゃなくて、そこには『1人が死んだ事件が2万件あった』ってことなんだよ」と発言したことがツイッターなどで共感を呼んでいる。

これを読んですぐに、僕にも思い当たるものがあった。大量の人の死を数で考えると思考が停止してしまうということを、以前訳した本ではこう表現していた。少し長くなるが、次に挙げるのは、『感染爆発―鳥インフルエンザの脅威』(マイク・デイヴィス著、共訳)の冒頭の一節だ。訳しながら心にガツンときたのを覚えている。

一九一八年、私の母の弟を含め、四〇〇〇万~一億人もの命を奪ったインフルエンザの大流行があった。このような災厄の時期に、ひとりひとりの苦しみをはっきり思い描くのは難しい。世界大戦や飢饉などの大災害では、死は、われわれの感情で理解できない種レベルの出来事にまで集団化される。その結果、被害者は二度死ぬことになる。彼らの肉体的な苦しみは、ひとりひとりの人格が大惨劇という汚水に飲み込まれてしまうことによって、倍増するのである。フランスの作家カミュは言った。「死んだ人間というものは、その死んだところを見ないかぎり一向重みのないものであるとなれば、広く史上にばらまかれた一億の死体など、想像のなかでは一抹の煙にすぎない」[『ペスト』(宮崎嶺雄訳、新潮社)より引用]人は、大勢の人の死を悼むことはできないし、抽象の墓場で泣き叫ぶこともできない。ほかの一部の社会性動物とは違って、われわれには集団の死を悲しむ本能はなく、仲間の死によって自動的に生物学的な連帯感が生じることもない。それどころか、ひどい場合には、ペストや津波、大量殺戮、摩天楼の崩壊などで、ひねくれて、ときに興奮すら覚えて、スケールの大きさに圧倒されたりもする。大災害を悲しむには、まずそれを具体的な人間で表現しなければならない。たとえばユダヤ人の大虐殺も、『アンネの日記』を読んだりホロコースト博物館の痛ましい遺物を見たりするまでは、心底衝撃を受けはしない。それらを読んだり見たりしてから、泣けるようになるのだ。

|

« ぼんやり思うこと | トップページ | 春の足音 »

物書き」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/510116/51200319

この記事へのトラックバック一覧です: 合掌:

« ぼんやり思うこと | トップページ | 春の足音 »