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2010年9月13日 (月)

ground zeroという言葉の重み

先日、朝日新聞にこんな記事が載った。

http://www.asahi.com/national/update/0906/OSK201009060072.html

「広島の被爆ピアノNYへ 爆心地結び9・11コンサート」と題して、被爆2世らが9・11の現地で平和を願う活動をしようとしているというものだが、なにか微妙な違和感をおぼえた。

本文中にもあるとおり、同時多発テロの中心となったWTC跡地は、よく原爆の爆心地になぞらえて「グラウンド・ゼロ」と呼ばれる。だが、少なからぬ日本人が、この類比に憤りを感じている。原爆の恐ろしさは桁が違う、彼らは本当の恐ろしさを知らなすぎる、無神経だ、などと言って。

僕自身、人が死ぬことに数の大小で差をつけるのはいけないことだと思うが、自分たちのしたことへの反省もないまま(かの国では今も原爆投下は戦争終結に必要な処置だったと教えられている)、それを連想させる言葉をあえて選ぶという行為に、いかにもあの国らしいダブルスタンダードを感じてしまうのは確かだ。

それに対し、今度は被害者側自身があえてその類比にかこつけて平和のきずなを結ぼうとしているわけで、僕はかなり戸惑ってしまった。ただまあ、結果的に世界平和につながるのであれば、言葉の選択の問題など些末なことなのだろう。しかし、米国側がこの運動をどうとらえるかが問題だ。あくまでテロ被害者を追悼し、そんなことが起きない世の中にしたいと願っているだけで、日本の人も一緒になってくれてうれしいと思っているだけなら、悲しい。自分たちの被害者意識だけで、日本の被害者への想像が及ばないとしたら、この活動は単に日本のお人好しな(一方的な)共感というだけで終わってしまうのではないか。

今日、実際に開かれたコンサートについても報道されている↓

http://www.asahi.com/national/update/0913/TKY201009130098.html

このなかで、「昨年12月に広島・長崎を訪問したというアデル・オーリーガンさん(52)は、「テロ9年のこの日、この地で、被爆ピアノを通して平和の大切さと相互理解の理念を共有することはとっても素晴らしいこと」。 」とあり、米国側で受け入れたなかに、広島・長崎を訪れた人がいるのは救いだ。相互理解という言葉が、9・11を超えた意味のものであることを切に願いたい。

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コメント

まったく同感です。
広島・長崎を訪問したアデル・オーリガンさんのことは知りませんでした。このようなところから、米国側からの広島・長崎への理解が深まってくれればという希望を抱きます。

投稿: ふく | 2010年9月13日 (月) 19時57分

ふくさん、ありがとうございます。
まずは知ることが大切ってことですかね。前に、ハリウッド映画での原爆の描かれ方がしょぼいとかいう議論もしましたよね。

投稿: むらさきしめじ | 2010年9月14日 (火) 15時21分

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